ぼちぼちやってます。
最近のPL主導系システムとかプレイスタイルについて考えたことなど。
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1.PL主導系システム・スタイルに対する違和感
GMがあんまりシナリオを作らずにセッション管理を主体にしたシステム/セッションへの感想として
「それは自分がGMとしてTRPGに求めている楽しさと違う」
的感想を見ることがあるのだが、かつてFEARゲー系のシステムで明確にGM主導なスタイルが提示されたときに
「それで楽しいのはわかるんだけど、
それは自分がTRPGに求めている楽しさとはほど遠いものだ」
「それってそもそもTRPGとは全く別物じゃね?」
というような感想が出てきたことがあるんだけど、立場が逆転しただけじゃん(笑)という気がしている。
時代は流転しているようだ(笑)。
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2.PLの方がサポートしやすいように思う
上手くないPLのサポートの仕方について、GMのスタンスで「どうしよう?」という問題があって、PLが上手くなるしかないかなあ、という流れがあるように思うのだが、(そこが「上手くなれ」と言われてるかごとこに認識されているように思う)正直GMがPLをフォローするには限界があって、ある一定のライン以下の場合には「ミッション失敗」になっていただくしかないところがあるように思う。そこまでフォローしてるとゲームが崩壊するとか、物語的リアリティが崩壊するとか、世界観的リアリティが崩壊するので、最低限のラインは設定せざるを得ないし、そもそも1人のPLのフォローだけにセッションを割くわけにもいかない(他のPLもいるわけだし)。
個人的には、上手くなれって言うよりは、
「君に力も運も覚悟も何にもないんだったら、そこは敗北するしかないよね。あきらめて受け入れてくれ。そこでグダグダ敗れ去るのも人間らしくて、それはそれで好きだ」
と言いたい気分である。ぶっちゃけ、あんまりどうしようもないPLまでフォローするところに労力を費やすのは面倒なので、素直に失敗を受け入れてくれ。悔しかったら自分で何とかしろ。て感じ。
というGMの都合による身勝手さはさておき、PLの立場で他のPLをサポートするべく動くのはGM側からサポートするよりもずっとやりやすいなあと思っている(最近PLでサポートする方向のプレイばかりしてるので。これがまた楽しい)。PLなので、別に全員の面倒を見なくちゃならないわけじゃないし、困ってる人だけ何とかすればいい。そこに集中すればいい。GMの場合には権限が大きすぎてあまりにも何でも出来ちゃうので、それではまずいから加減してフォローする必要がある。その加減が難しい。昔、ノリ優先でルール無視してどんどんPLの発言をOKにしちゃうGMがいたんだけど、これはこれで困った奴で^^;、口で言ったら何でもOKになるんだったらルールの意味がなくなってゲームじゃなくなる。正直駆け引きも何もなくなってゲーム的につまらなくなってしまうっていうところがあって、だからGMはどこまでOKにすべきかを世界観とか物語観に合わせて適度に加減する必要があると思うのだが、そのバランス感覚が難しい。
一方PLがサポートする場合には、ルールに則って全力でサポートするだけで良い。
そんなわけで、サポートするならPLがサポートする方がGMがサポートするよりもやりやすいし、向いているように思う。
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3.介入条件
上の関連で、PLがミッションをクリアするのに最低限必要な条件(or条件)
・特定ポイントで素晴らしいダイス目を出す
・ルールを理解してきちんと運用する
・物語世界観を理解してきちんと運用する
・しかるべき状況で覚悟を決め、実行する
・何か、代償を払う
上記のどれも満たせないなら、失敗で良いかと。
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4.GMは「PLという立場」も、もっと体験すべきと思う
上の話とも関連してるし、前の記事のシノビガミの感想の差異とも関連してると思うのだが、いわゆる「専業GM」というGMしかほとんどしないGMって結構いるんじゃないかと思っていて、僕もわりとそうだったんだけど、GMばかりしてるとPLがどこをどう楽しんでるのか?ってのが見えなくなってるところがあるように思う。
最近はPL主導なシステムが増えつつあるように思うのだが、その手のシステムというのは、第1に、PLの立場で楽しめることを意図していて、GMの立場で楽しむことは2の次となっていると言っていいと思う。なので、GMの視点でやると楽しくない?っていうか楽しさが良く分からない?ということになりがちかも。
そういう場合は、まずPLでプレイしてどこが楽しいかを体感する方が、そのシステムの楽しさを掴むのに近道かと考える。PLとして得られる楽しさを理解した上で、その楽しさを壊さない運営をするにはどうすれば良いか?その楽しさを、より拡大するにはどうすれば良いか?というスタンスでシステムが出来てると思われる。そのポイントを掴めるかどうか。
脚本とかシナリオ書きという職業では、オリジナルの作品を1から起こすというのは少なくて、企画なり原作があって、それを元に作品を作り上げることが多いように思われるのだが、そういうスタンスでの創作というのは
「上から与えられた題材に、どれだけ興味を持って楽しんで創れるか」
という資質を問われたりするみたいなのだが、PL主導なセッションでのGMの楽しみと近い感覚なんじゃないかと思う。
逆にGM主導なセッションでの楽しみに近いのは、オリジナル作品を1から創る小説家とかそっちの楽しさに近いように思う。
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5.「薄ゲー」という評価について
最近、わりと無難にまとまってるけど強烈にアピールする個性があんまり見えないシステムを「薄ゲー」と評する言い方を見るようになったのだが、どうなんだろう?と思っている。
正直今時のデータ満載システムって、コテコテのとんこつラーメン並みにデータが多すぎて濃すぎると思ってるところがあるんですよね。昔のシステムの場合、実のところ、せいぜい2~3ページのルールだけわかってたらあとはほとんどデータなし(アドリブ創作なんかで)で、十分回ってたりしたんですよ。まあ、D&Dなんかの場合はかなり異端で、昔からものすごい大量データ満載だったんですけど、それが普通と思われると困るっていうか。
基本ルールは最低限回るだけのペラペラルールだけど、システムの核になるエンジン部分だけひねりが利いてるくらいなのが、普通じゃないすか?(普通って何?(笑))っていうのが僕の感覚なんですけど。
というわけで
・今時のシステム
TCGの影響でやたらめったらデータ満載過ぎて感覚がおかしくなってないすか?
・「薄ゲー」?
1ひねりあれば十分では。1ひねりも何にもないのはさすがに確かに薄いとは思うが。
という感じに、思っている。
あとまあ、データが満載でかゆい所に手が届きすぎて、PLの創造力を出すところが減退してるので、データが少なめだったりするシステムが出てくるとそれを想像力で補って膨らませることが出来ずに、薄いセッションになっちゃうっていうところもあるんじゃないかなあと想像するのだが。
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6.ゲームブックとAVGの違い
最終的に、ゲームブックを評価して楽しんでた人間というのは、「メタに」プレイしていたと思う。要するに真面目にルール通り遊ぶんじゃなくて能力値MAXにして、戦闘は全部勝利で、指セーブで全分岐探査みたいなやり方をして楽しんでたと思う。少なくとも自分はそうであった。要するに、今時のTRPGで言うところの「メタ視点」での楽しみ方を、すでにやっていたと思う。PCが勝つかどうか?よりも「こんな思想で成功ルートが繋がってるんだ」という仕組みに感嘆していたというか。
ゲームブックブームの火付け役となった「火吹山の魔法使い」が顕著で、あれをクリアするのには結局、ダンジョンを全マッピングして「真の道」がこんなになってるのか、と発見し、そのエレガントさに感嘆していたと思う。
そもそも、ルール通り真面目にプレイする人間ばかりだったら、即刻「火吹山の魔法使い」で、もうゲームブックは廃れてしまったと思うのだが、実際にはそうならなかった。
末期のゲームブックがそういうメタ視点での楽しみに否定的で、ひたすらPLにフラグ管理させて指セーブを無効化する流れに流れて、メタ視点での楽しみを奪ったのが衰退の原因じゃないかと思うのだが。
AVGでは、そういうメタな視点で物語世界の全貌を上から俯瞰するのが困難で、プレイした話の分岐点が見えるようにするとかそういう工夫がある作品はいくつかあるのだが、まだまだ一般的にはなってないかなあというところがある。
あとまあ、話が飛ぶけど「葛藤」ってPCがメタ視点に至るから発生するんですよね、とか。
「意思決定」の面白さって常に、Always「メタ視点」が見えるから面白さが発生するんですよね。とか、何とか。
そんなところで