こちらで、クトゥルフ神話というものが日本でどう捉えられたかという話が書かれていて興味深いのですが、同様にやはりクトゥルフ神話というのは日本人的感覚から言って恐怖の対象となりえないので、日本人的な新たな遊び方が提示できるはずだと考えていて、その辺を以下にまとめてみます。
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1)「クトゥルフ神話的恐怖」のもたらしたパラダイムシフト
いまどき「クトゥルフ神話」と言ったところでそこに特異性があるかと言うと、はっきり言って何もありません。というのは、いまどきの「ホラー」や「伝奇もの」云々というのは、あまねくすべてが多かれ少なかれ「クトゥルフ神話」的な「恐怖の対象」のイメージの影響を受け、それを意識的・無意識的に取り込んでしまっているからです。
突然何を書いているのかと言われそうですが、以前書いた
・クトゥルフ神話的恐怖というものはキリスト教圏でしか恐怖と認識されない
の話の続きです。では、
・「クトゥルフ神話的恐怖」とはいったい何か?
ですが、それは「宇宙的恐怖(コズミックホラー)」とかいろいろわけのわからない表題が付けられたりしますが、要するに
・宇宙(≒世界≒神)といったものはそもそも人間の理解を超えた存在である。また、その意志は人間にはまったく計り知れないものであり、人の思惑などまったく関係なしにただそういった存在の理解不能な気まぐれによって人はあっさりと虫けらのように踏み潰される。“それ”にとって、人間というのはその程度の存在でしかないのである
つーことです。わかりましたか?僕もよく書いててわからなくなってきましたが(笑)、2つポイントがあって
・「理解不可能なもの」という恐怖の対象を提示している
・キリスト教圏では「人は自らの姿に似せて人間を作った」と言われるように、神にとって人間という存在は何かしら特別な存在である、と思われてきたのだが、その概念自体を破壊している
ということです。キリスト教圏の人にとっては「人間は常に神に庇護された存在である」という考え方が刷り込まれており、人間以外の(ここで言う「人間」というのは、昔の考え方だと「西洋人」とか「西洋人の中の男性だけ」とかいう意味だったりしますw)存在はそれに従属するものであり、人間の利益のために従事させてもなんら問題ない、という傲慢な考え方も出てくるわけですが、ラブクラフト的クトゥルフ神話の世界では
「いやいや、そんなものは誰も保証してくれないし、『神』なんて理解不能で、場合によっては気まぐれで害を与えてくる恐るべき存在だ」
という感じにキリスト教的世界観が与えてくれた「安心感」を根本的に破壊しているのです。これは、当時ダーウィンの「進化論」によって「人間はサルから進化したものだ~」と証明されたことによるパラダイムシフトよりもさらに大きなパラダイムシフトをもたらす考え方であったと言っていいと思います。正直ラブクラフトという人は、これで「無神論者」であると弾劾されるかもしれないというリスクを犯していたと言っていいでしょう。いや、「無神論」どころか「邪神論」か(笑)。
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2)日本での「クトゥルフ神話的恐怖」の位置づけ
さて、一方日本でそういった「理解出来ないものがもたらす恐怖」とか「大いなる神は害をなすことがある」といったようなものが「恐怖の対象」として成立するかというと、そもそも日本というのは中国という巨大な怪物と常に渡りあってきた(後の時代には、それは西欧諸国だったりいまだとアメリカがまさにそうですな)という歴史的経緯があるため
・巨大で理解不能なこちらの思惑を解しないおそるべきもの
というのは単に、
・理解して何とか共存すべく交渉すべき存在
として捕らえられることになり、そうやって理解されたものはすでに「恐怖の対象」として成立しないことになります。日本のこういったスタンスを現す典型的な言葉として「和洋折衷」という言葉があります。あるいは、日本と中国の折衷料理として「卓袱料理」なんてものもあります。これは日本自体の地理的状況もありますが、日本に浸透している仏教的考え方の影響も大きいと思われます。キリスト教では別の世界の神とか概念といったものはすべて「悪魔」とか「異教」とか言って排除にかかりますが、仏教の世界ではそれらは仏教の神様の一つとして組み入れられていく、というスタンスの違いがあります。
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3)宮崎駿作品に見る「クトゥルフ神話的恐怖」の位置づけ
うーむ。僕は基本的に「作品は好きでも作家が好きなわけではない」というスタンスで、宮崎駿という人は正直あんまり好きじゃないんですけど(いい作品はあるけど)、むしろ作家として好きな人と言うと木城ゆきととかのが感性がぴったり合うなあとか思うのですが(駄作は多いが)、まあ、例としてわかりやすいのであげておきます。それにしても「風の谷のナウシカ」以後そういうイメージをいれたがるようになったのは何でなんでしょうね。謎。
で、「千と千尋の神隠し」ですが、あれの「クトゥルフ神話的イメージ」を明らかに導入していると思われるのは
・「顔なし」
です。もうちょっとクトゥルフ神話にかぶれた腐った脳で見ると「釜じいはアトラク=ナクアかレンのクモではないか?」とかいう阿呆な相似性まで指摘したくなりますが(笑)、まあそこは置いておいて、なぜ「顔なし」が「クトゥルフ神話的イメージ」を受け継いだ存在であるかというと
・「顔(目)がない」
からです。「目」というのは「人間性」を表現する極めて重要な表現で、外見はどんなに恐ろしくても人間的感性を持っていて理解可能なものはすべて「人間的な目」を描かれています。千尋がエレベータで同乗する異形の神様の目の表情などが好例でしょう。
ところが「顔なし」には目がないのでそういった人間的感性を推し量ることが不可能で、さらに物語中で登場人物にとって理解不能な恐るべき害悪を及ぼします(視聴者には意図は丸わかりですがw)。まさに、「顔なし」というのは
・巨大で理解不能なこちらの思惑を解しないおそるべきもの
なのです。で、これがキリスト教圏的考え方から行くと
・相手の意図など理解不可能なので理解などしない。とにかく倒してハッピーエンド。そうやってハッピエンドに出来ない場合は「恐怖の対象」となってホラーになる
という風に描かれると思うのですが、宮崎駿作品に見る日本的感性から行くと
・千尋によって顔なしの意図が理解され、諌められておとなしくなる。以後は一緒に行動して守ってくれる存在となる
という具合に和解が描かれるわけです。
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4)「クトゥルフ神話TRPG」に描かれる「恐怖」
さて、「クトゥルフ神話TRPG」というシステムは西洋人によって考え、創り出されたものであるので、そのようなイメージでシステムも設計されています。システムでは以下のロジックが展開します。
・理解不可能な恐るべきものは人間に狂気をもたらし(SANチェック)完全な狂気に陥ったものはNPC化する
→PCがNPC化するというのは基本的に「悪」である
→よって、クトゥルフ神話で描かれる「理解不可能な恐るべきもの」は「悪」である
という3段論法です。最近のクトゥルフ神話TRPGではこういうスタンスが徹底されていて(わかりやすさのためでしょう)、掲載されるシナリオもそういう内容のものに絞られています。しかし、かつてはそういった「恐怖の存在=悪」の図式に当てはまらないシステムのコンセプトから外れたシナリオもありました。日本に最初に翻訳された「クトゥルフの呼び声(TRPGシステム)」に掲載されていたとあるグールの話なんかそうです。ああいうのを見ると日本的「和」とかの考え方というのは西欧にもあるのだなあと思うのですが。
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5)日本独自の「クトゥルフ神話TRPG」的シナリオの運用法
さて、日本人的感性で「クトゥルフ神話」を元にしたシナリオを考え出そうとすると、結局「理解不能なもの」というのは日本人にとっては怖くなく、むしろそれは「理解すべきもの」として写ることになります。ところがそれをそのままプレイしようとすると
・システム
が日本人的感性によるプレイを阻害することになります。要するに理解できない恐怖の対象を理解して何とか状況を解決しようとすると、PCは正気度を消費してNPC化の危険におびえながらプレイしなくてはならないことになります。
そういうプレイって面白いのか?と問われそうですが、僕は面白いと思います。例えば「深淵」というシステムがまさにそれです。「深淵」というシステムは
・目的のために命を削る
というシステムで、日本人的に?非常に燃えるんですが、「クトゥルフ神話TRPG」というのは
・目的のために正気度を削る
というスリリングな遊び方も出来、それは日本人的感性として非常にナチュラルなプレイが可能であろうと考えるのです。
以上。
書き疲れた(^^;